善く生きること

 

暗い話ばかりでは良くない気がしたので、そうではないこともブログに書こうとおもった。

 

わたしは中高がミッションスクール(キリスト教的教育をする学校)だったので、お祈りとかミサとか聖歌(賛美歌)とか、そういうのがとても身近にあった。

いまでもたまに聖書を読むし、クリスマスシーズンになると聖歌が街中で流れているから、口ずさんでしまう。だってとても馴染み深いものだったから。

 

だからといってわたしは洗礼(信者になること)を受けていないし、近所に教会があるけどミサに行ったこともない。

なんだか、まがい物みたいだなって感じるでしょう?わたしもそうおもう。

 

でも、宗教では「信仰」を重んじるんだって。先生が言ってた。

信仰は、信者でなくともできることなんだって。

宗教と聞くと、妄信的なイメージとか良くない感じするのは、新興宗教あたりのせいなのか、日本という国の性質なのかはわからないけど、わたしの場合は押し付けられたわけじゃないから、すこしずつ自分の中に浸透していったようにおもう。

イエス・キリストが死んだあとに生き返ったとか、そういう部分は別に信じなくても良くて、大切なのは、聖書に書かれてる教えの中から、自分が「より善く」生きる術を学ぶことなんだとおもう。

 

わたしは信者じゃないから、聖書に書かれている言葉をそらんじることはできないけど、色々な教えとか例え話を解釈して、わかりやすく教えてくれた先生や学校の教育方針が、わたしにたくさんの恵みを与えてくれたのは事実だとおもう。

人に嫌なことされてもやり返さないとか、人がしたくないことを率先してするとか、人に親切に接するとか。

そういうのって、わたしたちがイメージする宗教っぽさはなくて、自己満かもしれないけど、なんか良いことした気分になるよね。そのこころの満足感って、意外と日々を生きやすくしてくれるような気がする。

 

こんな文章を書いていてなんだけど、全然実践はできていなくて。

人のこといつのまにか傷つけているし、お仕事ダルいなってサボったりするし、なんか意地悪しちゃうし。あ、わたしいまこころに余裕ないんだなっておもう。ダサいなっておもう。

生きることは自己満で構わないとおもう。人生なんて、他人は付属品で、どう考えたって自分中心に決まってるんだから。

死ぬときに「ああ、良い人生だったな」だなんておもいたいとか、そういうのはちょっとキザできもちわるいなっておもうし、それよりもコマ切りで生きる瞬間で満足できるかどうかにかかってるんじゃないかな。

 

となると、やっぱり善く生きるためには、自分のこころを満たさなきゃいけないわけで。

どうやって満たそう?と考えたら、やっぱりわたしが行き着く先は、そこしかなくて。

人にやさしくしよう。自分の大切な人を大切にしよう。毎日をできる限りがんばろう。

 

なんだかやる気出てきたぞ。明日も実験がんばろうっと。