パッパラパーにはわからない

サブカル系バンドの新曲のタイトルみたい。

 

わたしはパッパラパーだ。
楽天家でいつも適当なわたしを的確に表しているとおもった。 研究室の教授が言ったので、甘んじて受け入れた。
これは、自分の意思によってでもあるし、もともとの性質でもあるとおもう。

 

わたしは自分の見せ方は様々だとおもっている。 それを演じるとかつくるとか表現するとおもう。 でもわたしの感覚的には、隠したい部分を隠しているだけで、偽りの自分というよりは、6面体くらいあるうち3面は見せて、他の面は角度的に見えていないような状態で人に接している。
だから、パッパラパーの面は自分の一部であって、決してこのブログを書いているわたしとは乖離していない。

 

パッパラパーであることは、自分への期待値を外から下げることができる。 そして、わたしは自分に期待をたいしてしない。 地を這うような高さのハードルをたくさん用意して、ぴょこんとこえるような生き方をしている。
それはプライドの高い自分をコントロールするためだし、これを覚えてからわたしはすごく生きやすくなった。 人から期待されないこと自体は結構平気だった自分の性格にも感謝した。

 

わたしはとてもうまく生きているとおもう。
ヤンキーが妊婦さんに席を譲ると周りの人が感心するよう、わたしも本来の自分の能力を発揮すると周りの人に褒められる。 とても楽だ。

 

だから、誰かが自分の能力を上回るタスクを自分に課しているのを見ると、なにをしているんだろう、とおもった。 それで本来できることもできなくなっていて、馬鹿なんじゃないかっておもった。
「しない」ことを「できない」と言う人に、すごく違和感を覚えた。 自分の不甲斐なさを隠すために、そんな言い訳をつかうなんてダサいとおもった。

 

わたしにはわからなかった。
勉強もバイトも、自分の生活の中に自分を無理させることがないから、それでこころが追い込まれてしまう人がわからなかった。
できないことをできないと受け入れることも、できることから始めようという切り替えも、その人にはむずかしいことだった。

 

わたしには簡単にできることも、ある人にはむずかしいことだということを、いつのまにか忘れていた。 わたしが底辺にいるような感覚で日々を生きていたから。 ほんとうはできるということに、優越感を感じていたから。

 

自分を愚かだと感じたのは、ほんとうに久しぶりだった。
悪意をもって人に接することが、こんなにも罪悪感に苛まれるようなことだとおもわなかった。 すこし反省させるつもりが、色々なことを背負ってること、どのくらいの重荷となっていたのかを、まったく知らなかった。
自分の浅はかさ、傲慢さを痛感して、恥ずかしくて、相手に申し訳なくて、大学にある庭の大きな木に隠れて泣いた。
馬鹿だなあとおもった。 こんな人間になるはずじゃなかった。 人の痛みのわかる、やさしい人間になるようにっておもっていたのに。

 

自分が生きやすいようにと、色々な努力をした結果、自分だけの世界に閉じこもっていることに気付いた。 わたしは自己中心的な人間になったことに、いまさら気付いた。

 

人の痛みは、パッパラパーにはわからない。