拒絶
過ごす、という言葉を頻繁に使うようになった。
以前までは、「日々を過ごす」なんていわなかったもの。 だって日々は過ごすものというより、勝手に通り過ぎていくものだとおもっていたから。
以前と比べて、だいぶ能動的になったとおもう。
もともと活発な子だったし、積極性も持ち合わせていたんだけど、いつからか、それってウザいことなんだなって思春期に悟った。 というか、悟らされた。
わたしは中高と女子校に通っていたから、そういう部分は多感な子が多かったんじゃないかな。 どういうのがウザくてどういうのがキモくて、みたいな線引きが厳しかったとおもう。
だから、わたしは人と接する時は受動的な態度を示すようになったし、それは相手がアプローチをかけてきたらコミュニケーションを取るわけなので、「拒絶」ということがなくほんとうに楽だった。
自分のコミュニティが異様に広くなって、廊下を歩けば色々な子に挨拶されるみたいな、そういう中高時代だった理由は、きっと自分の都合の良い時に話を聞いてくれて、否定もしないようなところだったのかな、とおもった。
ほんと、クソみたいな思春期だよね。 「拒絶」がこわいって、どんだけプライド高いんだよ、みたいな。
それを人は「やさしさ」って呼んでいて、それが正しいかどうかは別にわたしが決めることじゃないけど、まあ勘違いだよねって。
やさしかったら、間違ってることを指摘するとおもうし、ただ聞いてるだけの作業なんて、頭使わなくて良いし、興味がなくてもできることなんだよ、っておもってるけど、それは言えなかった。「拒絶」がこわくて。
よく付き合ってる人が自分よりスペック高くて年齢も上なのに、何かしら文句言ったりする子の話を聞くけど、素直に凄いなあ(馬鹿だなあ)とおもう。
「拒絶」を恐れないのは、自分が受容されている自負があるからなのか、ほんとうに馬鹿だからなのかがわからないけど、自分とは全然違うなって。
でもそういう子の人生って、ほんとうに人に愛されたりするんだろうな、ほんとうに仲の良い人たちに囲まれるのだろうな、とおもうと、わたしが欲しいものを手に入れていてずるいな、良いなっておもう。
だからわたしも、すこしずつ能動的になろう。
自分の浅薄な人間関係を、少しずつでも深くしていきたい。 たくさんの人にすこしずつの愛よりも、深く愛されたい。
人と向き合うって、ほんとはもっと疲れることなんだよね。