12月を師走といえば良いとおもってるでしょ

この師走という言葉、非常に年末感があってすごいとおもう。たった2文字だけで人々が駆け足にその年を締めくくろうと、色々なことを処理してゆく姿が思い浮かべられる。

 

は〜。とんでもない一年だった。

社会人になってしまうし、ばあちゃん死ぬし、親父も死ぬし、マブダチも死んで、マジわたし死神では?ってなんかこわくなっちゃった。いや、わかってるよ、人の生き死ににそういうナニカは関わらないって。わたしのせいじゃないけど、なんかわたしが良くないもので、他人がそういう不幸な目に合うのって、すごく居心地が悪いもんだよね。

 

身近な人間の死って、死んで間もない時は色々なことを考えて、自分自身に何かしらの変化が起きるイベントでもあるとおもってたけど、半年以上経ってみて、所詮わたしはわたしのまんまだなっておもった。

「大切な人たちを大切にする」ってのも、わたしの気分に浮き沈みがあって、それに左右されてできない時がある。自分をコントロールするのが難しい。もっとつよくなりたいとおもうけれど、何を意識したらつよくなれるのだろう。

 

そうそう、わたしは「つよさ」への憧れが幼い頃からあって、理由は己の正義感なんだろうとおもう。セーラームーンみたく悪者倒したかったし。空手習ってた時は物理的にパワーほしかったし。いまはこのへなちょこなメンタルを金属製にしたいし。

実際のところ、わたし一般以上にメンタルはつよいとおもうんだけど、それじゃ足りないってこの先の人生考えるとおもうの。わたしは人に頼るのが下手だし、もしかしたら頼る人いなくてひとりで生きてゆく可能性だってあるし。

 

最近おもったことがあるんだけど、わたしってパートナーへの下心がすごいとおもうの。パートナーなんだから、わたしが大変って時は癒してほしいし、いつでもわたしの味方でいてほしいし、みたいに尽くしてほしいって気持ちが本当につよい。いや〜実際はそうじゃないんでしょ、わかってますよ。知ってることとおもってることの乖離ってなぜ生まれるんでしょうね。

 

一昨日、仲良しのおじさんに「わかばちゃんは人見知りで、サシで誰かと飲みに行くとか本当にむずかしいんだよね」って話された。うわ〜おっしゃる通りでキモ!

サシで飲むことの大きな不安は、その場が持たないこと。会話が途切れた時の空気とか、自分がから回った時の気まずい感じとか、全体的に耐えられないのね。へなちょこなので。

それと実際に大きな問題として、わたしの他人への関心の薄さがあるとおもう。わたしが他人にあまり関心持たれたくないっていうのが前提にあるからなんだけど、他人がどんな仕事してるとか、何が好きとか、恋人がいるかとか、そういうのにあまり興味が持てない。というか、それを聞くのが少し恥ずかしい。すごいコミュ障では?ちょっと自分でもこわい。

 

 

すごいこの文章。起承転結じゃなくて、起転転転って感じ。わたしの頭ん中いつもこんななのかなあ。

 

それではみなさん、良いお年を〜。