感情というものの所在

早くも10月が終わる。新たに仕事を覚えてからは、とてもあっという間に日々が過ぎてゆく感じがする。忙しいと昨日とそのまま同じ1日を過ごしているような感じがする。

 

仕事を覚えた、ということ自体は自身の価値が高まったことに違いないのだが、それはあくまで職場での価値であり、わたし個人としての価値が上がったと言えるのか?という疑問が出てくる。仕事をしているわたしもわたしであるのだから、歳を重ねて、仕事を覚えたり教える立場ともなれば、それは無論わたし個人の価値も高まったと言えるのだが。なんだか腑に落ちない。難しい。

 

 

わたしの口癖のようなものになっているもので、「かなしみはいつでもわたしだけのもので」云々がある。

これはかなしみだけでなく、すべての感情に言えることで、わたしが感じるすべては、等しく誰にも感じることはできない 。あの時うれしかったことも、悔しかったことも、なんだって誰にだって1mmもわかるはずのないことだ。

ことさらに「共有」や「共感」は友情や愛情、おしなべて人間関係を語る上で重要なファクターであるが、なぜそれが重要なのだろうか。共に泣き共に喜び、といったワードも卒業式の答辞や聖書にすら登場するが、この「共に」ということへの重さがひどい。

 

わたしも分かっているのだ。丸ごと誰かの感情を知ることが「共有」ではないことを。誰かが喜んでいる様が自分にとっても幸福であること、そのメンタリティが崇高であるのだろう。それも分かっている。事実、こうしたら相手は喜ぶだろうと踏んで何かアクションを起こすし、かなしませたくないからそういうことはしないとか、そういう配慮をする。ただ、これは経験的に知っていてすることであり、自分に不利益がないように、という打算があるからしていることなのだろうともおもう。

 

多分だけど、わたしと深く関わっていこうとする人は、わたしと同じなんだとおもう。きっと嗅ぎ分けて「この人は共有がわからない」ってみんなわたしとはそこまで仲良くなろうとはしないんじゃないかなとおもう。

それで良くて、わたしには知られたくないことが沢山ある、踏み込まれたくない領域が案外そこら中に散在している。安易に踏み込ませて困惑するのは、相手の方なのだ。共感させてあげられなくてごめんね、って、なんだか気持ち悪いけど、それがわたしの在り方なので。

 

 

これが一般的にいう「拗らせ」なのだろうか。ま、拗れてるのは確かだよなあ。難しいね。