たとえば

 

「あなたの趣味はなんですか?」

 

「好きな異性のタイプはなんですか?」

 

「いつも休日は何してるんですか?」

 

 

みたいな質問に答えられなくて、自分に幻滅することがある。

わたしの趣味ってなんだっけ、本読むけど、本好きって言えるほどじゃないし、音楽なんて最近聴くようになっただけだし、ファッションはツイッターでフォローしてる村民の方々には遠く及ばない。

好きな男?うーん、穏やかな男が好き、でもそれだけ。ていうか、恋愛とかいつからしてないんだっけ、そもそもわたしの今までの恋愛って、本物の恋愛だった?

休日って、そんなやることあるかな。有意義な過ごし方してなくて恥ずかしいから、答えたくない。

 

 

わたしって、一体なにをもって存在してるのだろう。

意志を持って動いたこと、いままでにあった? だれかの言われるがまま、意志を持ったふりした傀儡だった?

いつも他人の目を気にして、他人の求められる自分でいようって、なにその努力、きもちわるいベクトル。

 

でも、こういう生き方しか知らない。保守的だし、大人が言う道ってきっと正しいじゃん。じゃあ、乗っかっておこうかな、って。悪い選択じゃないよ。

 

人のこと言える口じゃないけど、みんなは自分で決めてその道を歩んでほしい。やりたいこととか好きなこととか、自分の大切にしてるものとか、そういうのを見つけてほしい。人じゃなくて、だれかがいなくても、それは揺るがないってものを。

わたしはなんだろうな、わたしは何もないから、人に依存するしかないんだろうな。好きな人たちのために、生きていこうかなって最近殊更におもう。わたしには、何もないから。

選ばれる

 

日々の生活の中で、わたしたちは選択をし続けている。

だれかの指示に従うことも選択の一つだし、なんとなく手に取ったジュースも自分が選んだことなのだとおもうと、選択というものが自分につき纏ってるナニカのようで、すこしだけきもち悪い。

 

逆にわたしたちは選ばれることもある。受動として、だれかに選ばれる対象になる。

 

たとえば最近、わたしは骨髄提供のドナー候補のひとりとして選ばれた。

 

血液型は赤血球の表面に存在する〈しるし〉みたいなものの種類によって決まる。その〈しるし〉は2種類あって、それが1つずつ出ているのか、2つとも出ているのか、どちらとも出ていないのかによって、4種類の血液型に分類される。日本ではA型が多いとか世界ではO型が多いとかあるけど、所詮4種類なのでほとんどの人は同じ血液型の人に出会う。

実は白血球にもそういう〈しるし〉みたいなのがあって、赤血球よりもすこしだけ複雑だ。兄弟姉妹同士だと1/4の確率で同じ〈しるし〉を持つんだけど、それが非血縁者同士だと結構な低い確率でしか合わない。ここらについて気になる人がいれば、 http://hla.or.jp/about/hla/ ここにでもアクセスしたらやんわりは理解できるとおもう。

 

前置きが長くなったけど、つまりわたしは骨髄提供を待つ人と同じ白血球の〈しるし〉をもつ人として選ばれたのだ。患者さんには申し訳ないけど、正直「運命」と似たなにかを感じてしまった。わたし個人のもつ何かによって、だれかの命を救えるかもしれない、という気持ちはきっと偽善者にとってはかっこうの的である。

もちろん、わたしはまだ候補の一人に過ぎないから、わたしよりも条件の良い他の候補の人が最終的には選ばれるかもしれない。そしてここでわたしが候補からおりますという選択もできたわけなんだけど、それをしなかったのは、わたしがその人を救えるかもしれない、という偽善によるところが大きい。ただ、選ばれた側というのは、偽善を使命感とかに置き換えられる。わたしが能動的にできることではなく、機会を与えられて行うのだから。

 

ここまで来るとわたしの少し歪んだ価値観を知れられたとおもう。拒絶したり軽蔑してもらっても仕方ないとおもう。

でもおもうのは、だれかに選ばれる、ということはほんとうに気持ちの良いことなのだと。わたしたちは選び続けることよりも、だれかに選ばれ続けることのほうが難しいことを知っている。ある一人に集中することで、じぶんが選ばれないことだって往往にしてある、そんな絶望といつも隣り合わせだ。

 

だからわたしはうれしかった。やっとだれかに選ばれたのだと実感できたから。

ジャパニーズ

いまさらながら、音と文字を紐付けして同一のものとして捉える言語というのは、本当にすごいな〜とおもった。

 

わたしは日本語が好きだ。特に日本人が話したり書いたりする日本語が好きだ。

「なにを言っているのか?」とおもう人もいるかもしれないが、わたしは外国語から翻訳された日本語はあまり好きではないため、そのように言う。翻訳されたものは、雑味のない、まっさら、と形容できるように、非常に綺麗でお手本のような日本語だとわたしは感じる。

わたしの好みは、その人の癖が感じられる日本語だろうとおもう。その人の人間性までもが伝わるのが、母国語が日本語である日本人の言語であるからこそ、わたしはそれが好きなんだとおもう。そしてそれを感じられるのは、日本語を母国語としているからだとおもう。

 

国籍をアイデンティティーのひとつだと捉える文化は日本にはないとおもわれる。理由は多人種がほぼ入りまざらないから、とかそこらへんがメインの理由だとおもう。他を知らないから、それがアイデンティティーとなることを知らないし、結局アイデンティティーなんてものは、他者と比べて自分たらしめる何かを指している気がする。そもそもの定義は絶対的な自分の個性だろうけど、まあ比べることが一番手っ取り早い評価の仕方だよね。

 

なにを言いたかったのか、というと、わたしは喋ったり書いたりすることが好きだし、それは自己表現欲というものとはすこし違っていて、ん〜なんていうか、自分と日本語をつかう人を探しているんだとおもう。

フィーリングってやつかな、だせ笑

 

オチがいつもなくて困るんだけど、まあ人生そんなもんです。

影響

 

hiphopを聴くようになってそろそろ2年くらい経つ。ペーペーなのには変わりはないけど、自分の好きな音楽がどんなものなのかは少しずつfixされてきているような気がする。

 

hiphopを聴き出した一番最初のきっかけは、錦織圭nujabesを試合前に聴くという記事を読んでからだったように記憶している。

nujabesはjazzyなトラックを沢山つくってて、作業用BGMって感じにして聴き始めた。すごくこころが穏やかになって良かったし、いまも一番好きなアーティストは?って聴かれたらhiphop界隈なら彼の名前をあげる。

特に好きなのはLuv sicのpart4。歌詞の日本語訳を見てからなおさら好きになった。季節の歌。うつくしいな、とおもう。聴いてみてほしい。

 

つぎの強いきっかけはバトルだとおもう。

フリースタイルダンジョンとか、高校生ラップ選手権とか、そこらへんをyoutubeで動画を漁っておもしれ〜ってなった。最初は韻とかわからなかったし、もはや聴き取れないしで、字幕つきのものを見てたけど、客の沸き方とかで「あ〜、なんか今韻踏んだんだな」とかを感じてたのしんでいた。

いまでもバトルは良く見るし、最初は苦手だったアウトローな感じのラッパーも、芯のブレてない、人をハメたりとかそういうダサいことをしない人たちのことは好きになった。hiphopはその人の生き方とか、スタイルとかそういうのを反映している(らしい)から、だから、それを感じられたときって、なんかすごくうれしくなるし、すごく人として好きになる。hiphopの良さって、これか〜、ってバトルを通して知れた。

 

じつは、最近febbっていうラッパー(トラックもつくる)が死んじゃったんだ。

10代ですごいアルバムをつくっちゃって、ほんとうに格好良いんだけど、すごく才能があって、音楽への愛情がすごくて、沢山レコードもってるみたいな、めちゃくちゃ聴きこんでて、知識もすごくて、愛らしいキャラクターで、地声がエロくて、そういう人なんだけど。

なんで死んじゃったのかなっておもう。まだ24歳だよ。この先、まだまだ音楽つくれたのになって。

それよりも、なんか人としてすごく好きになってたんだとおもう。彼が死んでから、彼のものに沢山触れてみて、なんか、死んでからなのに、もう遅いのに、好きになっちゃってたんだとおもう。

だからすごくかなしくて、愛おしい人をなくしてしまったような、そういう気持ちでいるのは甚だおかしいんだけど、そういう風な心境でいるから、めちゃくちゃに泣いてしまった。明日、目が大変なことになってそうで不安なんですけど・・。

 

まあ、だからなんだって話なんだけど。

ライフスタイルを示している彼らは格好良くて、わたしの人生に少なからず影響を与えてくれていて、わたしも芯の通ってて、なにかに愛を傾けて、そういうじぶんを格好良いぞ〜ってじぶん自身が認めてあげられるようになりたいなって、おもった。

近況

メールボックスに「前回記事を書いてから1ヶ月経ちましたよ」ってあった。お知らせありがとう。

 

近況として、いちばん伝えたいのは、実験をしてなさすぎた1ヶ月のツケが回ってきていること。

日々を遊びに費やしすぎて、お金も就活前とは思えないくらいつかってしまって貯金がないし、時間も体力もそちらに注ぎすぎた。遊びといってもたいしたことはしていないんだけど、それでも人と会うとお金はみるみる消えていく。お金を使わずに人と会っていた時期は、もうとっくの昔に卒業してしまっているのだから。

 

 

と、ここまで書いてみたのはいいものの、なんだか書く気が一気に失せてしまった。話をどこに落とせば良いのか考えるのが億劫なんだろう。すべて生理のせいにしてしまえば良い。子供を産むかわからないのに、その機能を否応無しに備えさせられていることに深く絶望を感じる。おわり。

ハウツー

 

中学生のころ、ハウツー本の『ハウツー』は”how to”であるころを知って、めちゃくちゃ笑った記憶がある。ダサすぎ。

 

今年の目標に「彼氏をつくる」ことを第一にあげていたけど、そもそも彼氏ってどうやってできるものなのだろうか。

乏しいながらも皆無ではない、いままでのわたしの恋愛は、ぽっと出の男を好きになってしまうことばかりで、果たしてそれは付き合うまでに至る可能性はあるのか?と疑問におもった。だって全敗だし、もしかしてこういう恋愛の仕方は、わたしの今年の目標達成には向かない気がしている。

では、彼氏となってもらえるよな恋愛の仕方って、いったいどのような感じなのか?

容姿も優れていない、性格も万人受はしない。強いていえる人に好かれる部分は愛嬌くらいしかない場合、そして、一般的な男が好む格好をぜったいにしたくない、とおもってるわたしは、どうやって恋愛したらうまくいくのだろう?

 

好きだけじゃいけないことも、好きな人の好みに近づくように努力しなきゃいけないことも、わたしはちゃんと自覚しているつもりなんだけど、それをしようとおもえるほど、相手をおもえるかわからない。

わたしはスカートが履けないし、かわいい下着もつけられないよ。ある意味、なにかの呪いにかかってるようなもの。わたしは、かわいい女として生きることをゆるされていない、ってずっとおもってる。

 

恋愛は、相手と向き合うようで、自分と向き合い続けることを強制されているのかな。相手をおもうこと、それは自分をおもうことと同じで、理由は自分がされたらいやなことはしないようにって、自分がされたら嬉しいことをしようにって、そういう関係の構築の仕方になるのかな。わかんないけど。

 

妥協とか、それは相手にほんとうに失礼だし、わたしのことを良い、とおもってくれる人がいて、その人ときもちが重なりそうなら、わたしはその人を大切にしたいなって、さいきん殊更におもうようになってる。

難しいだろうけどね、でも、やっぱりわたしは簡単にだれかと付き合おうってタイプじゃないし、ダメだったらダメで良いかな〜まだ2018年になって1ヶ月も経ってないけど。

 

おわり。

したいこと

 

来年度で学生生活がほんとうに終わる。

長かった。小学生から大学院生まで、なんと15年もわたしは学校に通っていたということになるのだから。

15年同じ身分であったから、急に社会人という異なるステータスに変わってしまうことは、正直いって不安のほうが期待よりも勝る。

社会人は、いわばほんとうの大人だ。ハタチを超えて大人になるのではないと、わたしはハタチを超えてから知ったので、じぶんの食いっぷちをじぶんで賄う社会人は、ハタチでは得られなかった大人の称号をもつ存在だと、いまはおもう。ハタチの時と同じように、社会人になってからも社会人は大人ではないと感じるのだろうな、と予想がついているけど。

 

学生のうちにできることを、わたしはしておきたいな、とふいにおもった。

大学生になってから、じぶんのできることは格段に増えたとおもうが、だからといって行動にうつせたかといえば、頷くことはできない。

たとえばだけど、わたしはずっと革靴を買おうとおもってるのに買えていないし、痩せようとおもってるのにその努力はしていない。

本来使うべきところにお金や労力を割いていないし、それはただの怠慢であって、だからじぶんが何者であるかがわからなくなってしまっているのだな、と感じた。

趣味もないし、中途半端な容姿で、だれからも認められないことを憂うのは、じぶん自身の磨き方が甘いのにな〜おかしいことだな〜とおもう。

そうであるなら、わたしはもっとじぶんに時間をかけて、社会人になる前にじぶんをちゃんと完成した形に近づけたいとおもった。

 

ということで、わたしが社会人になる前、最後の学生生活の間にしたいことを下に記します。

 

・スケボーをする

・スナックではたらく

・ジムに通う

・じぶんに似合う格好をする

・音楽フェスに行く

hiphopイベントに行く

・お笑いライブに行く

フィルムカメラを買う

 

おわり。がんばるよ〜。