選ばれる
日々の生活の中で、わたしたちは選択をし続けている。
だれかの指示に従うことも選択の一つだし、なんとなく手に取ったジュースも自分が選んだことなのだとおもうと、選択というものが自分につき纏ってるナニカのようで、すこしだけきもち悪い。
逆にわたしたちは選ばれることもある。受動として、だれかに選ばれる対象になる。
たとえば最近、わたしは骨髄提供のドナー候補のひとりとして選ばれた。
血液型は赤血球の表面に存在する〈しるし〉みたいなものの種類によって決まる。その〈しるし〉は2種類あって、それが1つずつ出ているのか、2つとも出ているのか、どちらとも出ていないのかによって、4種類の血液型に分類される。日本ではA型が多いとか世界ではO型が多いとかあるけど、所詮4種類なのでほとんどの人は同じ血液型の人に出会う。
実は白血球にもそういう〈しるし〉みたいなのがあって、赤血球よりもすこしだけ複雑だ。兄弟姉妹同士だと1/4の確率で同じ〈しるし〉を持つんだけど、それが非血縁者同士だと結構な低い確率でしか合わない。ここらについて気になる人がいれば、 http://hla.or.jp/about/hla/ ここにでもアクセスしたらやんわりは理解できるとおもう。
前置きが長くなったけど、つまりわたしは骨髄提供を待つ人と同じ白血球の〈しるし〉をもつ人として選ばれたのだ。患者さんには申し訳ないけど、正直「運命」と似たなにかを感じてしまった。わたし個人のもつ何かによって、だれかの命を救えるかもしれない、という気持ちはきっと偽善者にとってはかっこうの的である。
もちろん、わたしはまだ候補の一人に過ぎないから、わたしよりも条件の良い他の候補の人が最終的には選ばれるかもしれない。そしてここでわたしが候補からおりますという選択もできたわけなんだけど、それをしなかったのは、わたしがその人を救えるかもしれない、という偽善によるところが大きい。ただ、選ばれた側というのは、偽善を使命感とかに置き換えられる。わたしが能動的にできることではなく、機会を与えられて行うのだから。
ここまで来るとわたしの少し歪んだ価値観を知れられたとおもう。拒絶したり軽蔑してもらっても仕方ないとおもう。
でもおもうのは、だれかに選ばれる、ということはほんとうに気持ちの良いことなのだと。わたしたちは選び続けることよりも、だれかに選ばれ続けることのほうが難しいことを知っている。ある一人に集中することで、じぶんが選ばれないことだって往往にしてある、そんな絶望といつも隣り合わせだ。
だからわたしはうれしかった。やっとだれかに選ばれたのだと実感できたから。