時間を考える

昨日、東京からの帰りの新幹線でブログを書こうとおもっていたのに、出張報告書を書いたり、論文を推敲したりしてたら、いつのまにか仙台に着いていた。

1時間半なんてすぐに来てしまうのだなあ、とあまりにバカな感想を抱いた。

 

仙台から地元まで30分在来線にゆられる。30分の間にもブログは書けたけど、SNSのチェックをしていたら最寄りまで残り5駅くらいになっていた。

30分はもっとあっという間だ。

 

ちなみにその5駅分は穂村弘の食べ物に関するエッセイ本を読んだ。

いま現在読んでいる時点で、妻が不在の日にお惣菜を買った話と、最近の若い男の子は料理をしている話が面白かった。

前者は野菜を摂取するために肉じゃがの「にん」だけを取った話で、後者は若いカップルがおいなりさんを持参してきて、女の子が「これ彼がつくったんです」って自慢げに言ってきたという話。なんかちょっとキモです。

 

ちなみにわたしの個人的な見解だけど、おいなりさんを作る男など信用してはならないとおもう。

きっと「ぼくのおいなりさんも食べて」って言ってくるに違いない。

料理のできる男というと、なんだかポイントが高い風潮だけど、中性的であるのに女に媚びているのがわかると、異様な男性性を感じてキモになるんだよなあ。気をつけてほしい。

 

 

そうそう、今年わたしにはかなしいことが3つ起きたわけだけど、その分たのしいことがあるよ〜的なのは全くおもっていません。

あの日々を思い出したりしてて、案外まだべそかいてるので、そりゃ〜簡単にへっちゃらになるなんてことはないもんなあ、と。

あまり人にプライベートなことを話すようなタイプではないので、自分の中で完結させようとしているから時間がかかるのかもしれない。

本来は大切な人ほど、わたしの身に起きたことを話すべきなのだろうけど、わたしは自分の身の上話で誰かを困らせることが苦手だとおもう。不幸自慢のようで、誰かに哀れんでほしくて、というような印象を持たれたくないのだとおもう。

自分を理解してほしい、というのとは別で、かなしみを誰かと共有するべきでないというのはわたしの美徳であるとおもうし、身の上話でわかるわたし像など本質ではないので、やはり不要である。不要は言い過ぎか。

 

 

なんか目が痛くなってきたので、ブログはここまでにする。

さっき玉ねぎみじん切りにした時から目が痛かったんだ。