大人になってゆく

久しぶりに文章を書く。わたしは文才がないので、結局言いたいことの1%くらいしか伝わってないような気がするけど、でもこれは自己満なので良いかなとおもいます。

 

 

前回の更新が3月だったので、わたしが社会人となって初めてのブログ更新だ。

社会人になっての感想は、正直何もない。特段楽しくもなく辛くもない。これでお給料もらえるのか〜びっくり!という感じ。院卒だしお給料少し高めに寄越せよっておもってたけど、思いのほか院卒のアドバンテージはない職業だったので、せっせと雑用しています。パラフィルム切ったりとかね。

 

前回も、というかもはやいつでも言ってることなんだけど、田舎に残ることの残酷さがいつでも影を落としている気がする。わたしの低脳さを田舎のせいにしているだけかもしれないんだけどね。

やっぱりもっとできる!もっとやれる!って気持ちがあります。でも上が詰まってる、上に気を遣って控えめにいなきゃいけない、みたいな、そういうのがとてももったいないとおもう。

わたしが英語論文毎日読んでもいいじゃない。与えられた課題をせっせとこなしてもいいじゃない。勉強は悪ではないのにね。自分より努力を惜しまない人間を、少し牽制してしまうのは、なんだかとても悲しいことです。そういうのに反応してしまうわたしの弱さにも悲しくなってしまいます。

 

 

わたしは自分の食い扶持を稼ぐようになってからが、ホンモノの大人だっておもっていました。したがって、いまのわたしはそれに当てはまります。

なんだかわたしはいつまでも子供のようなところがあって、おぼこいというか、人に面倒みてもらうのが好きなのか、誰かに何かを施してもらうととてもうれしくなるので、あまり自立できていないように感じます。

 

ただ、身内が亡くなったり、大学時代の仲良しの友人が突然死したり、そういうよくわかんない事態が立て続けに起こって、一体なんなの〜って気持ちでいる。

ただわたしは仕事へ向かい、ご飯を食べ、友人と酒を飲み、少しだけ恋をしたりして、普通の日常を営んでいる。それがなんだか不思議でならない。

あいつが死んだのに、わたし今日男と会えるって喜んでんじゃん。何それ、キモ、って感じ。薄情かよっておもう。

わたしはラインの検索で「好き」って調べるようなキモい女なんですが、死んだ友人とのラインもヒットしたので恐る恐る遡った。そしたら2年前に好きだった男との話してんの!わたしって本当に成長してないね。いまの状況もほんとは実況レベルで報告するつもりだったんだよ。バーカなに死んでんだか。

 

 

悲しみはいつでもわたしのもので、誰かと共有しようって気にはならないんだけど、今は少しみんなにわたしが大人になってく過程を見ててもらいたい。

こうやって、納得いかなかったり理不尽とおもうことに出合うのは、年を重ねている証拠なんだろうとおもう。べつに強くなるつもりはないよ、でも耐性ができてゆくのだろうか。それが大人になる、ということなんだろうか。

みんながおもう大人を教えてくれたらうれしいです。

 

 

それでは。

シティガールに憧れて

わたしは東北生まれ東北育ちで、中学から政令指定都市(つまりそこそこ都会)にある学校に通っていたが、住んでる場所は郊外の港町である。わたしが使う言葉には濁音が多めに混じっていて、関東出身の友人に「?」とされる方言も自然と出る。

 

わたしは田舎者だ。

 

田舎といえども、交通手段はバスや自家用車しかないといったような限界集落というわけでなく、交通手段も充足していてそこそこの流通があるため、典型的な田舎ではないだろうとおもう。ただ、田舎であると感じる原因は「人」だ。

わたしの住む地域では、同級生たちのほとんどは高校を卒業して働き始める。大学進学組は1割程度といっても過言ではない。大学に通った同級生は、頭が良い and/or 家が裕福という条件を満たしている。彼ら/彼女らは地元で仕事をして、早めに結婚をして家庭を築く、それが最も多い人生設計だろうとおもう。

わたしの町では世間では一般的とされる大卒ですら異質であるため、そこから更に大学院に進学した時点でそれがわたしの性質となる。異質であれば、なんとなく敬遠される。

 

いまやSNSが発達し、田舎に住んでいようとネット回線がつながっていれば情報は手に入る。首都圏や関西の友人も簡単に作れる。良い時代に生まれたとおもう。

わたしは容姿と反して、ヤンキー文化を好む傾向にある。田舎は不良が多いし、彼らが人間関係におけるピラミッドの頂点にいた。わたしは途中で地元の人間と隔離され、遠方の中学に進学させられたが、潜在的には憧れがあったのかもしれない。だから彼らのエッセンスを取り入れる準備は整っていて、そういう文化を好みやすいのかなともおもう。

その容姿と反したヤンキー文化の傾倒(は大袈裟だけど、他に表現が見当たらない)にわたしの周りのガリ勉気質の人の中には拒絶する人もいる。変わった子、として認識される。でもそれは、少し前のわたしも自分と異なる性質の人間たちの文化は低俗だと思っていた。それと同じかもしれない。

だからこそ、SNSがあって良かったとおもう。わたしにはわたしを受容してくれる人がここにはいないけど、遠いところにはいるのだと分かる。高学歴でもhiphopを聴くし、高卒でも院進したことをどうもおもってない。SNSで見せているものが、実際とは異なるというかもしれないが、それはいま面と向かって話している相手に見せているものも本物とは限らないから、案外変わらないのではないだろうか。

 

田舎では、じぶんと違うことへの拒絶に頻繁に遭遇する。マイナな人間への風当たりは一向にやまない。

わたしは高卒というマジョリティから外れた大学進学というマイナの中へ、大学の中でも彼らの好む文化ではなく別の文化を好むことでマイナとなり、ベンズの図を描けば共有部分の中に含まれる人間が、わたしの周りには圧倒的に少ない。

 

都会に出れば、わたしと同じような人間だって多くいるだろうとおもう。わたしと同じでなくとも、わたしと同じくらいマイナである人もいるだろう。都会は、異質と異質が共存しているし、そしてそれを異質と呼ばない世界だろうとおもう。

わたしがシティガールに憧れたのは、わたしを変なモノと扱わない環境がうらやましいからなんだろうとおもう。わたしの中身を知る前に、わたしに標識を付けて縄張りに入れないようにする環境とは違う。わたしの好きなものが勉強でもスカジャンでも、どうでもいいよ、っていってくれる場所は田舎ではなく、都会だ。

 

それでもわたしは都会へ出ない。家庭の事情が、という言い訳はしたくない。行きたいのであれば、家など捨てて出れば良い。

でもわたしはそれほどの覚悟も持てない。都会に出たところで、ほんとうに受容されるか結局は分からない。知るために身を投じるほどの余裕もなく、リターンが得られないかもしれないという賭けができなかった。

所詮、わたしの承認欲など一過的で、刹那的に蝕まれたような幻覚を抱いているだけなのかもしれない。どうしても欲しいのなら、きっと探し求めて田舎から出ていく。

そして、わたしは田舎を嫌いになどなっていない。

 

 

 

と、ここまで書いたんだけど、飽きちゃった。おしまいにします。

電車まであと10分

家から最寄り駅まで自転車で10分くらい。だから家を電車の発車時刻の10分前に出るとあまり待たずに乗れる。わたしが住む田舎では、このお昼の中途半端な時間は1時間に3本くらいしか電車が出ない。一つ逃すと結構待つことになる。それはまだ寒い3月ではしたくない。

 

そうこうしてるうちにもう時間がやってきた。10分って意外とあっという間なのね。

 

行ってきます。

天邪鬼がずっと進む

わたしは天邪鬼だ。かつて好きだったものが周りのみんなも好きだと言い始めれば、わたしはもう好きではなくなってしまう。あれ、これって天邪鬼ではないような。

 

例えばわたしは金木犀の香りが好きで、コロンを購入して嬉々として首筋につけていたが、インフルエンサーあたりがそれをバズらせれば、もう違うと思ってしまう。まるで多くの人に気付かれていないことが価値であるような。実際そうなのではないかと思う。

珍しいものが好きというわけではないし、わたしにもミーハー的要素は多分にある。わたしが好きなものも、所詮誰かの二番三番四番煎じだ。それでもなんだか人の目に晒されると一気に萎えてしまう。ダイアモンドの原石のようなものが好きなのか。磨けばだれもが欲しがる、でもわたしは磨く前からそれを知ってたのよっていうマウントを取りたいのか。おそらくそうではなく、だれにも見つからずに愛でていたものが多くの人のものになることに耐えられないのだろう。嫉妬と似ている。わたしだけのものであったのに。そんな自分勝手なヤキモチのせいだ。

 

わたしは前から周りのみんなが良い、と思うものから避けて生きてきた。中学生の頃、RADもBUMPも聴かなかったし、流行りのギャル系のファッションブランドにも手をつけず、みんなが行ってたスタバにも行かなかった。

それよりも星野源が「首筋の匂いがパンのよう すごいなって 讃えあったり」みたいなよくわからない歌詞が好きだったし、ne-netの変な柄のパンツを履いたり、田舎の在日韓国人が営む喫茶店のキムチチャーハンを食べていた(辛さの奥の旨味や甘味がパネエんだよ)。

ne-netは置いといて、星野源は今やスーパーアイドルだし、田舎の喫茶店に足を運ぶ人も増えた。やっぱり悲しくなってしまう。周りでわたしだけがその魅力に気づいてたのに、そうやってわたしの居場所を奪ってくのね、って。ほんとうなら、べつにだれが何を好きだろうが、自分が好きならどうだっていいはずなのに、そういう変な被害妄想のせいで自ら肩身の狭い思いをしている。リストカットしてるメンヘラと同じ。要因を作ってるのは自分、そう、敵はわたしなんだ。

 

自分の性格を偏屈だと捉えたことはないし、拗らせたとも思っていない。でも周りがそう評価するなら、それが真なのではないかもしれない。でもわかってないな〜って思う。わたしは素直なままだし、どこかの時点でこうなったんじゃなくて、前からこうだったんだよ。

来月は大阪旅行

こんばんは、ワカバです。ほんとうは今から細胞のお世話をしなきゃいけないんだけど、筆ならぬタイピングが進むうちはブログを書け~って教わったので、そちらを遵守。

 

じつは来月、大学の友人と大阪に卒業旅行に行きます~!イエーイ。

わたしの「ユニバーサルスタジオジャパン行ったことないんよね」の一言で決まった行先、本来は台湾とか海外を予定していたんだけど、ギャルでいう「場面」的な感じのノリで大阪に決まりました。ヤッタネ!

まあ、わたし関西自体は4回目なんですね、京都にばっか行ってるわけなんですけど、今回も結局京都に行くことになりました。マブが稲荷伏見行きたいといってたけど、うちそうなると3回目になっちゃうんですね。もうそろそろ飽きたかな~って感じです、稲荷伏見で隠れミッキー的な通な楽しみ方ご存知の方は、ぜひDMしてください。

わたし結構旅行って行くまで「だるいな~」っておもうタイプの女で、行ったらテンションブチアゲマックスになるみたいな、マジすこし性格直した方が良いですよ~って感じなんだけど、今回は今のうちからめちゃたのしみにしています。なんでか知らんけど。でも3月って天候結構最高じゃない?うち微妙に寒い気候がいちばん動きやすくて良いです。沢山動いてようやく汗かくレベルの気候がほんとうにベスト。だからうれしいのかもしれません。

 

それだけです(*^-^*)バイビー!

世間が気にする沢山のこと

こんにちは。挨拶をいつもしていません。ワカバだよ~(・o・)★

 

Tumblrというお洒落極まりないブログで8本くらい書いたりしてたけど、やっぱり肌に合いませんでした。わたしはとことん芋くさいんだろうとおもいます。はてなブログは落ち着くナー。

(※はてなブログをdisっているわけではありません。ご了承ください。)

 

さいきん日が長くなってきましたね。昨日なんて仙台ですら15℃くらいの気温で、ぽこぽこフリースを着ていたわたしは汗をかきました。これでも薄着したつもりなのにな、とおもいましたが、汗をかくこと自体随分久々だったので、いっか!ってことにしました。

ところがどっこい、きょうは最高気温が1℃って予報士さんがいっていて、さすがに馬鹿になったの?と。出川さんがよくやってる、こめかみあたりに指チョンってしていう感じのリアクションになった。だってぜったいおかしいじゃん。高低差がすごいので、たぶん耳がキーンとなります。ということで、きょうはバブアーセーターにzuccaで買った黒なんだけどカブトムシみたいにテカテカしてるダウンを着ました。耳が痛いので帽子をかぶるべきだったなと後悔しています。

寒さ関連でいうと、昨年末に帰省する同級生から「仙台どんな感じ?(寒さが)」と聞かれたので、「肌が出てるところが寒いよ、顔とか」と答えたら、「それは東京も同じです」とマジレスされたことを思い出しました。ちなみにわたしはボケたつもりはありませんでした。ほんとうに心から肌の露出は良くない、ということを伝えたかったんですが、まあ日本語というのは難しいということです。

 

さて、常々ツイッターでは「性」「結婚」「仕事」あたりの不満が沢山話題にあがっているとおもいませんか?わたしのタイムラインは比較的平和、ぽにぽにゆーとぴあなので、お洋服とごはんとYシャツとわたし、くらいの話題が大半を占めているので良いのですが、たまに他者がいいねした投稿がわたしのタイムラインにも載るんです。それがたとえば旦那さんへの不満だったり、性の相性の話だったり。

こんなに沢山の人が呟くということは、きっと普遍的で結構多くの人が感じている事柄なんだとおもうんです。ただ、まだ学生で、そういう世界からやや隔絶されたところにいると、なんだかうまく飲み込めなくて、外とのギャップに戸惑う。そういう旦那さん選んだのは自分だろうし、性の相性って特段人様に向けてお話する内容ではないし、仕事もつらいのわかるけど、そんなに嫌なら転職したらいいじゃん、って個人的にはおもいます。

人の呟きにいちいちいちゃもんつけるな、ってコメントはごもっともで、わたしも実際にはそうおもうんだけど、なんでこんなに多くの人が同じことに対して不満を持ったりするのかな~って。解決をするつもりのない軽いものであるようにはおもえず、でも積極的に動くつもりはないんだろうなってのも。

わたしが異端であることを主張したいわけではないし、ゆくゆくはわたしもそういう感覚を持つかもしれないし。でも、もっと単純に世界を見るほうがきっと良いんだろうなっておもいます。

 

いつもオチをつけられないので、文才のなさを痛感するけど、わたしが書きたいのはここまで!おわり!!!

寂しいとおもうこと

 

秋がすぐそこまで来てる。というか、もう秋かな。

金木犀がこの前すごくつよく香ってきた。まだ花をつけたばかりだというのに、もうそんなフェロモンみたいなの出して〜って気持ちになりました。ツイッターでも書いたけど、わたしは金木犀のコロンをもっていて、金木犀に負けじと香らせています。イイね!

 

さて、すこし涼しくなってくると、なんだかセンチメンタルなきもちに陥りがちです。きっと暑さに滅入ってたのが、余裕が出てきちゃって、余計なとこに目が向いちゃうんでしょうね。

去年の今頃も、学部時代の友だちとこの季節は一緒に飯食って勉強してたな〜って、でも今年はひとりだねって寂しくなってた記憶があります。ブログにも書いてます。

だから、わたしはいまとっっって〜〜〜も、伊代ちゃんです。

 

理由は明瞭。

たびたび登場している、研究室の先生(医師なので先生呼びですが、実際は院生さんです)が博論書き終えて、病院に戻っちゃったからで〜す!

いつも隣の席でいっしょにゴルフとかテニスの動画みたり、SUSURU TVみてお腹空いたね〜ってお話したりしてたのに、そんな日常が急になくなっちゃった。

 

わたしは、あんま大切な人とか作りたくなくて、それはそれぞれのタームで関係性が変わってしまうことへの耐性ができてないから、しんどくなっちゃうのが嫌だな〜って予防線はってるの。だから、わたしは友だちとか少ないし、耐えられそうかもっていう相手とだけずっと繋がってきた。

でも、今回は研究室っていう、毎日朝から晩までいる環境で、自然と接する時間が長くなってしまった人たちと築いてしまった、自分にとって最高の場所が、先生っていうピースが欠けてしまうことで意図もたやすくこわれてしまうことが、ほんとうに寂しくて仕方ない。

 

わたしはノスタルジーを感じる人を、大切にする傾向がある。

最近出会ったとしても、なんだか前から知ってたような気がする、そんな居心地の良さを感じる人に対しては、まるで幼い子のように執着してしまう。

執着してしまいやすいがゆえに、わたしは今まで自分で予防線をはってきたというのに、このざまですよ。は〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

 

 

寂しさを埋めるのに、新しい人を見つけるみたいな、そういう方法もあるんだろうけど、それっていたちごっこで、永久に埋まることってないんだとおもう。その寂しさはその人でしか埋められないし、埋められないんだったら、そんな穴なかったんだよって誤魔化すしかない。その方が健全だし、愚かしくない。

 

だから、またわたしは一生懸命がんばってくしかない。

たまに会えるんだからいいんじゃない、って。焼肉たまにいっしょに行けばいいんじゃない、って。来年からはゴルフに連れていってもらえる約束つけたんだから、って。

沢山納得させる理由を探して、そういう風にしたらいいんだよ。